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2013年10月

2013年10月11日 (金)

【出版準備:第三報!♪(^_-)-☆】

出版準備:第三報!♪(^_-)-☆】経過報告どす。

お お き にっ! ♪(●⌒∇⌒●)♪大阪

『予告:my本 出版(予定)』どす。

書籍名:=仮称=

  繪 夲     (●⌒∇⌒●)♪ 

【超初心者・鬭病老人の♪】(=丄卷=)

步祿

(

ブログ

)

my過厺の日記:趣味彼是を通じて殘りの人生、丗閒との繫がりを♪】

「初校:著者校正」~9月に完了。

「再校&カバーラフ:著者校正」~10月、間もなく仕上がります。

その後、出版社にて修正~製本と成ります。

来月全てがクリアー出来れば、

Img_1617hyousiobi

「仮称」が正書籍として11月には

世に出る、待ちに待った

『出版』どすゑ~っ♪(^_-)-

(主要書店&ネット販売)

文字通りに、古稀を過ぎた老人・病人・身障者・・・

この世に遺言書替わりに、子孫へ置き土産として、こんなお馬鹿ジジイにも書けたと、あの世にも手土産が出来たと喜んで居ります。

次回:若しも出版決定しましたら再び内容と共に献本もご紹介したいと夢を膨らませても居ります。

=祝= 此れも元を正せば【nifty:ココログ】の・・・ ブログのお陰で、闘病老人の【夢】が叶います。♪(^_-)-☆

~★~

昭咊の、匂いがする

戰爭の、後影が見える

“心”で綴られた步祿!

・・・思わず過去を想いだしたくなる

・・・過去に戾りたくなる

そんな “”   どす。

~★~

貴方は、聯れ合いに、子、孫に

・・・何をしますか?

・・・何をせますか?

~★~

そんな 人に!

こんな 人に!

読んで貰いたい

そんな ”  ” どす。

・・・ ヤクザな人生に

“おさらば“決意をする時に!♪

ボケ老人になる前に!♪  

死を意識し、死を目前にしたお方様に!♪

  

自殺をお考えのお方様に!♪

そんな かたがたに 読んで戴きい思いどす。

健康な、 病める、 

一人で、 二人で、 

あの人と、 この人と、

戀する、 失戀の、 

合格の、 落選、 

目が覚めた時、

樂しき、 怒る、 悲しい時、 

走る時、 歩く時、 眠る時、

引き返す時、 苦しい時、 

死に直靣の、  

家族で 仲閒と・・・

其の

々で、此の【絵本】を紐解いて戴ければ倖せどす。

・・・

お お き にぃ~っ! ♪(〃⌒―⌒〃)♪yumenakama08

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2013年10月 6日 (日)

【ハダシのた〜坊:我が家の戦後風景】

・・・我が家の戦後風景

 

(た~坊=おれ どす♪(^_-)-☆)↓ ↓ ↓

矢張り、た~坊の時代は「ラヂオ」やし!

ラジオ放送で始まった【大東亞戰爭】は、ラジオ放送で敗戰どした(_

;)

昭咊二十年八月に日夲は敗戰。

經濟の復興は 、貧乏生活は、・・・

【燒け野原】 其の中から始じまった。

子らは、靴磨きで家計を助け、親父や不良?少年逹はモク(捨てられた烟艸の吸殻)を拾い輯め、 帋の切れっぱしを丸めては烟(けぶり)を吸い、お袋さんは寝ずに封筒貼り・・・

失業者は溢れ、傷痍軍人は彈き謌い物乞い、進駐軍は威張りくさり吾が物顏で甼中を闊歩す、婦女子は犯され、唯々“おしん”の如し、否日夲中が“おしん”どした。

吾は默々と喰する物(もん)を漁り赱り廻る、闇米を搜して赱り廻る、何かを盜んではMPから迯げ廻る、涕いてばかりでは無い、

そんな心の内にも既に希望が、仂く意慾が、未來への槌音が聽こえて來る樣な氣ゐ~が・・・そんな時、何時もも悲しくも懷しい唄が耳に、直ぐにラヂオの音は途切れるやうや志ゐ~、でも何が在ろうとどんな時でも卓袱臺(ちゃぶだい)には“ご飯”が在ったし、笑い聲が在った、 御馳走樣!。親心に感謝緞須。

・・・今 涙  (_;)

そして、昭咊二十五年  夏、 其の夜 た~坊ら親子の内職を終えて後、兄弟逹五人は何時ものやうに、四疂半の一部屋で共に貮組の布團で、仲良く橫に成った(;一_

)

蚊帳の外、鄰の參疂の閒(居閒卓袱臺(ちゃぶだい)・夫婦の寢室、その他全て兼用)からは、

♪ラヂオ『今週の明星』の番組らしく、聽こえて來た やうな!・・・

 

『白い花の咲く頃』唄:崗夲 敦郞の、謌が 流れていたんであらう可!♪

♪” 白い花が 咲いてた  ふるさと之  遠お~い夢の日~  ♯♭

   さよなら~と 云ゐったら 默ぁってうつむいてた  おぉ下げ髮 ♯♭

     悲しかぁった  あの時の   あの白い  花だよ~ ”♪

た~坊 今日は心軆共に疲れ果て牀(とこ)に附く ☆~☆ 夢 中♪ ZZZzzz…☆~☆

子供逹が寢入ったその后ラヂオを消して尚、母は夜延()べ、鍼仕亊の最中でしょう可、

勿論、扇風機も無ければ、冷藏庫(冰)も無い、團扇だけだが今は手が空かない、

裡側、部屋と裡庭閒の間を開け廣げて風の吹くまま、自然の儘・・・其れだ丈どすゑ(汗 涕 が!) 父やん、母やんの寢姿は見た試し記憶が、十八年閒一度もない。

もんぺ姿で正坐して赤ん坊を脊負って何時もいつも内職をしていたんが 緞須。

鍼に絲を通しているのか、 齒で絲を切って居るのか、 鍼で髮を梳いて居る仕艸か、 そんな姿 仕艸が・・・(赤ん坊は、た~坊が見たのだから末子、弟しかいないが♪)

一番瞼に燒き附いている、 姿 ・風情 ・仕艸、 此れが 母やんの姿 緞須ゑ。

※=我が家の内職=

【封筒貼】

:曩のノリは良かった♪手ゑや顏に著いてベッタベタッ!(●⌒∇⌒●)

【七味入れ(當時は三角形の袋入り)】

:クシャミと共に 鼻水と 涕が!・・(_;)

【ペコちゃんの箱造り】

:目玉入れが難しいん緞須ゑ、黑のセルロイド♪\(o)/♪

♪“ 亰蕎據   唐辛子(とがらし) 

      香(かほ)り 

 

        菊 香る “♪

おそまつどしてた!

お お き にぃ~っ! ♪(〃⌒―⌒〃)

yumenakama08

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2013年10月 5日 (土)

【遠い目標】

・・・=以下 次回へ、= は、
当分の間お休みを戴きます、次回は次回以降へ!



【遠い目標】

・・・処で近頃熟くと感じることは、現代は 結論をあまりにも
急ぎ過ぎているように思います。

其れに余りにも早くから準備をしすぎているようです。


大人達の関心は 子供や孫のことでしょうが、其の子供や孫のためと
小さいときから学習塾や家庭教師などと 大人達が一生懸命になっている
ケースを 見聞きします。

此れは 実は 子供にとって本当に必要な教育は 誰かにまかせて
自分は責任を逃れているのかもしれません。


人間として生きていくには、学校の勉強や学力だけではなく、幅広い
社会的な見識を学ばせる必要があるのではないか。


点数で評価できるもの 比較して優劣が決められるもの、その評価や優劣に
左右されて、人間誰でも全員が持っている必要がある経験や知識が 
欠落しているようにも 思います。


吾々戦前戦中の貧しい時代は、家庭を助けるために子供の頃から、働くこと
親を助けること、弟や妹の面倒をみることなど、共同で生活することで
大事なことを、多くの子供達が体験し学んでいたと思います。

Komori0002


それが、現代は 生活に余裕が出来、しかも子供の数が少なくなって
自分が若い頃苦労した為に、子供にだけは 楽をさせたいと甘やかし、
我が儘な片寄った生活をさせているのではないかと、感じています。


お仏壇のある家では、昔は仏さま中心の生活をしていたようですが、

今は 仏さまに変わって、お子さま 中心の生活になったのではないか。

その為に、年配の人々は 子供や孫と離れて住まい、同居しても
発言力のないペットの様に 行動を制限されて生きている人も少なくない
ようです。


子供の本当の幸せを願うなら、仏教的な壮大な価値観をもっと
受け入れ 伝えていく必要があるようです。


阿弥陀如来は、すべてのものを救う、お浄土へ生まれさせ仏のさとりを
得させて、仏のはたらきをさせる。これが、仏さまの願いであり、救いです。

われわれは、試験に合格させてほしい、健康でいたい、この病気を
治してほしい、いつまでも若さを保ちたい、あれがほしいこれがほしい、
死にたくないと願って生きています。


しかし、そのどれをも 阿弥陀如来の救いではないのです。

結論は もっと遠くにある 今この瞬間に結果を求めてもそれには
応じてもらえないのです。

もっと、末通った人間の究極の幸せ よろこびを 与えるとの教えです。

目先のことに一喜一憂する生活から、もっと遠くを目指した余裕有る
豊かな生活をしてほしいとの願いを、じっくりと味わいたいものです。

南无阿彌陀佛の願いは、身近には多くの苦しみ悲しみ悩みが沢山あるものの
やがて、それが一つとして無駄なことではなかった。


仏として活躍出来るその時にためには みんな有り難い経験だったと
言える 人生を、生き方を与えていただくのだと思います。


南无阿彌陀佛の教えは どんどんどんどん 喜びが増してくる教えです。

年を取れば取るほど、病気をすればするほど、いのちが終わりに近づけば
近づくほど 悲しみ苦しみが増えてくれば来るほど、喜びが増してくる
教えだと味わえます。


すばらしい人生だった、無駄なことは一つもなかったと 味わえる
喜びを与えていただく、それが南无阿彌陀佛のはたらきであり、
お念仏の教えだと感じています。



自分らしさで  味わいを表現し、  

    お念佛を  共に憙ぶ

        有り難い  人生を   

 頂いたものだと  味わう毎日です。   

                合 掌    拜禮 <(_ _)>



お お き にぃ~っ! ♪(〃⌒―⌒〃)♪yumenakama08

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2013年10月 2日 (水)

【善人なおもて往生す、いわんや悪人・・・】

凡夫の小生(坊主でも無く、関係にも非ず)には「私の法話」は御座いません。

お寺様等から御聴聞(“ただ仏法は、心をこめて聴聞するにかぎる”)させて戴いたもんどす、悪しからず。<(_ _)>

【善人なおもて往生す、いわんや悪人・・・】

のお話かと思います、

過日目を通した中からの抜粋どす♪(^_-)-☆ ↓↓↓

先ず、・・・どんな小さな悪も見逃さない仏の眼から見れば、すべての人は悪人だと浄土真宗では教える。

【悪人】

衆生は、末法に生きる凡夫であり、仏の視点によれば「善悪」の判断すらできない、根源的な「悪人」であると捉える。

阿弥陀仏の光明に照らされた時、すなわち真実に目覚させられた時に、自らがまことの善は一つも出来ない悪人であると気づかされる。その時に初めて気付かされる「悪人」である。

【善人】

親鸞はすべての人の本当の姿は悪人だと述べているから、「善人」は、真実の姿が分からず善行を完遂できない身である事に気づくことのできていない「悪人」であるとする。

また自分のやった善行によって往生しようとする行為(自力作善)は、「どんな悪人でも救済する」とされる「阿弥陀仏の本願力」を疑う心であると捉える。(=本願ぼこり=)

【因果】

凡夫は、「因」がもたらされ、「縁」によっては、思わぬ「果」を生む。つまり、善と思い行った事(因)が、縁によっては、善をもたらす事(善果)もあれば、悪をもたらす事(悪果)もある。どのような「果」を生むか、解らないのも「悪人」である。

…………………………………………………………………………

【歎異抄:第三章】:善人と悪人

『歎異抄』第三章のはじめにある「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」ということばは、『歎異抄』の中でもっとも衝撃的なことばだといえるでしょう。

阿弥陀仏は悪人こそ救わなくてはならないと誓われたという教えを「悪人正機」といいます。

二十年ほど前に韓国から尹晩栄先生が来られたとき、「悪人正機」を「悪人正客」といいかえられました。

阿弥陀仏の目の前に、悪人が正客として招かれているような感じられ、なるほどと感じたことを思い出します。

「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」ということばは、親鸞聖人が初めて言われたのではなくて、親鸞聖人の師・法然上人のことばです。

親鸞聖人は法然上人から聞いた教えとして、しばしば弟子たちに語っておられたのでしょう。

『歎異抄』にいわれる「善人」「悪人」とは、どのような人を指すのでしょうか。

『醍醐本 法然上人伝記』に次のような一節があります。

一、善人なおもて往生す、いわんや悪人をやの事。

私に云う、弥陀の本願は、自力を以て生死を離るべき方便ある善人のためにおこしたまわず。

極重悪人にして他の方便なき輩をあわれみておこしたまえり。

しかるを菩薩賢聖もこれにつきて往生を求め、凡夫の善人もこの願に帰して往生を得。

いわんや罪悪の凡夫、もっともこの他力を憑むべし、というなり。悪しく領解して邪見に住すべからず。

譬えば、本は凡夫のためにして、かねて聖人のためと云うが如し。

よくよく心得べし、心得べし。

はじめの一行が法然上人のことばで、「私に云う」から後は、法然上人の弟子が説明として書きくわえられた文章です。

わかりにくい文章ですが、「善人」は菩薩や聖人や凡夫の善人をさし、「悪人」は極重悪人をさしています。

また、善導大師の『観経疏』に次のようなことばがあります。

諸仏の大悲は苦ある者においてす、心ひとえに常没の衆生を愍念したまう。これを以て勧めて浄土に帰せしむ。

また水に溺れたる人のごときは、すみやかに、すべからく、ひとえに救うべし、岸上の者、何ぞ済うを用いるをなさん。

この二つの文章から考えると、「悪人」は水に溺れている人のように、五濁の世界に沈みきって苦しんでいる人、「善人」は水に落ちていないから自由に歩ける人のように、自分で道を定め、仏道を進んでゆく能力がある人をさしているようです。

しかし、『歎異抄』第三章には次のようなことばがあります。

自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。

(自力の善行を積み重ねて浄土に往生しようと願っている人は、ひたすらに阿弥陀仏の他力をたのむ心が欠けているから、阿弥陀仏の本願の趣旨からはずれている。

しかし、自力の心をひるがえして、他力をたのむ心へと変われば、阿弥陀仏の真実報土へ往生をとげることができる。)

ここでは「善人」を「自力作善のひと」といい、阿弥陀仏の本願からはずれた人であって、自力を捨てて他力をたのむようにならなければ阿弥陀仏の救いを受けることはできないといわれます。つまり、「善人」とは自力の立場に止まっている人です

『正信偈』で龍樹菩薩と天親菩薩の教えを学びました。

一般的に考えると、龍樹も天親も菩薩と呼ばれるように、優れた能力がある聖人です。

しかし、二人が仏道に入られたとき、念仏に出会われたときは、自分自身が罪悪深重の凡夫であることを深く自覚されたときでした。

このことから思うことは、ほんとうに能力がある「善人」がいるのかということです。

善導大師の師・道綽禅師は『安楽集』に次のように述べておられます。

我が末法の時の中に、億億の衆生、行を起し道を修すれども、いまだ一人として得る者あらずと。当今は末法にして、現にこれ五濁悪世なり。ただ浄土の一門のみありて、通入すべき路なり。

道綽禅師は今から千四百年前、中国が分裂をくりかえした南北朝から、統一された唐にかわっていく混乱の時代に生きた方です。

その中で、廃仏毀釈がおこり、僧の地位を剥奪され、もしかしたら、強制的に徴兵されたことがあったかもしれません。

後に再び出家されて、念仏の道に入られました。

道綽禅師にとって「五濁悪世」「行を起し道を修すれども、いまだ一人として得る者あらず」ということは、身にしみて現実のことであったでしょう。

「善人」はひとりもなく、「悪人」ばかりの時代世界のなかで、自分自身も「悪人」として生きてゆかなければならない現実。親鸞聖人も同じように感じておられたにちがいありません。

それでは、『歎異抄』でいわれる「悪人」とは、どのような人でしょうか。

たとえば、犯罪者のように悪事を行った人という意味ではありません。もっと自覚的なことば、信心から現れでたことばです。

善導大師は『観無量寿経』によって「機の深信」と「法の深信」との二種深信を明らかにされました。

深心とは、すなわち深く信ずる心である。深い信心には二つある。

一つは自己を深くかえりみる心である。

自分自身はじつに罪重く迷いの生死を重ねてきた凡夫、はるかに遠い過去世よりこのかた、常に沈み、常に流転して、みずからの力によってはこの罪悪と迷いの世界から逃れることはできないと、心の底から気づく心である。

二つめの深い信心は阿弥陀仏の本願を信じる心である。

たとえ罪悪と迷いの世界に沈んでいる者であっても、阿弥陀仏は四十八願をおこして救いとり、浄土に迎えてくださると、はからいも疑いもなく信じる心である。

=次回に、続く=

お お き にぃ~っ! ♪(〃⌒―⌒〃)♪yumenakama08

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