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2012年8月

2012年8月31日 (金)

【素通りしてはいませんか】<(`^´)>

愈々八月も今日で終わります、厚さも終わって戴ければ幸いです。

【道場】この言葉・・・幼い頃からの脳の奥底記憶に残っています。

田舎(両親共に同じ福井の山奥)には、疎開~小学校低学年に行った様で、

【道場】と言う所が在り、毎日村の親父達のお話を聞いていたそうです。

【九月】:、「稲刈月(いねかりづき)」 「夜長月(よながつき)」、「寝覚月(ねざめつき)

「色どり月」 「祝月」 「詠月」 「菊開月「(菊月) 「建戌月」

「青女月」 「竹酔月」 「覚月」 「紅葉月」 「暮秋」・・・



【季語】:仲秋、八朔、夜長、夜なべ、秋の水、水澄む、七草、としよりの日・・・



【行事】: 敬老の日、 明日は「防災の日」 そして

「秋分の日」では、【秋季彼岸会】が行われ、宗派問わず墓参りをする方も多い、

小生は人混みを避けることと身体の関係で時期を外して年に二回程お参りをします。


半日でお参りと往復が出来る距離で生まれ故郷の

京都・「大谷本廟」です。

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/ ・ ↑ 「ご本殿」 ↓

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毎年、春分 盆 秋分の日にはテレビで居乍にして様子が観れます。

両親の墓と共に小さいですがmy墓も既に御座います♪(^_-)-☆

Book21

【本堂を素通りしてませんか?】<(`^´)> 

         ~お寺での墓参り~



私のお寺には、本堂の裏手に境内墓地があり、門徒さんのお墓が
並んでいます。

そのお墓にお参りするご門徒の様子を見ると、およそ次の三タイプがあります。

一つは、「お墓に参るときは決まって本堂へ上がり、ご本尊の阿弥陀さまに礼拝する」

二つ目は「本堂へは上がらないが、外から礼拝する」

三つ目は「本堂は知らん顔で素通りし、お墓だけお参りする」です。

そして、残念ながらこの三つ目のタイプが一番多いようなのです。


先日も、お墓参りだけをすませて帰ろうとしていたご門徒に気づき
「どうぞ本堂へお上がり下さい」と声をかけたのですが、

「ちょっと急ぎますので、これで失礼します」とつれない返事・・・・。
こちらの願いはなかなか通じませんでした。



 もしお寺にお墓があるのなら、お墓参りの際、ぜひ本堂の如来さまに
合掌礼拝していただきたいのです。


 お寺の境内墓地というのは、宗旨宗派を問わない公共墓地とは違い、
信仰を同じくする者がそのみ教えの 【道場】 である本堂のそばに設けた
宗教施設であり、心から敬うご本尊のおひざ元にあるお墓なのです。


ちょうど如来さまに抱かれた形でご先祖のお墓があるわけで、
これほど恵まれた環境の墓地はないといってよいでしょう。


 この境内墓地にお墓を建てられたご先祖のお心を思えば、如来さまに

知らん顔をして、本堂を素通りすることはできないはずです。


きっと、ご先祖は「お墓があることによって少しでもお寺に
足を運んでくれるように、そして仏縁を深めてくれるように」と子孫に
願われていることでしょう。ご先祖が

“親心”を込めて用意して
くださったせっかくの仏縁を無にしないよう、お願いします。



 さらに言えば、我が家に帰った時でも、また他家を訪れた時でも、
親やその家の主人にまずあいさつするのが常識です。



その点から言っても、

“まことの親”であり、ご主人である
阿弥陀さま にごあいさつするのはむしろ当然なことでしょう。




お お き にっ! ♪(〃⌒―⌒〃)♪大阪yumenakama08

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2012年8月30日 (木)

【人生の目的】

【人生の目的】

Book21


阿弥陀さまは本願に、私たちの人生の目的、いのちの目標を「念仏往生」と
教えてくださいました。
なぜなら「念仏」も「往生」も、私たちが決して願うことがないと見通された
からでしょう。



「往生」とは「生まれて往く」こと

人間は自分たちの寿命の尽きることを「死」と名づけました。
ところが仏さまは「往生」「生まれて往く」といわれました。
しかし、私たちは「往生」といわれても、自分たちの考えが間違いないと
信じ切っていますから、その言葉をすなおに受け入れることができません。


それよりも自分たちが理解できないことには、「そんなバカな-」と、
考えること自体を否定してしまいます。


でも、仏さまの言葉を聞かせていただく者からすれば、あなたは無意識かも
知らないが、仏さまを「バカな」と言ったことになるのです・・・。

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そんな傲慢な人間のありさまを、親鸞聖人「正信偈」


※「邪見驕慢悪衆生」・・・

思い上がりも甚だしい者と誡められました。


 表現によって内容が変わる

 日本語は同じ事柄でも、表現によって意味が大きく変わります。
たとえば、食事をすることを「いただきます」「頂戴します」というときと、
「食べる」というのと、「喰う」とでは、同じことでも全く気持ちが違うことが
知られるでしょう。


 寿命が尽きることも同じです。

それを「死」とよぶか「往生」とよぶかです。事実そのものは変わりません。


ですから別れの悲しみ、残る者の寂しさ、辛さはあります。
しかし「死」の言葉の持つ「暗さ」「虚しさ」「絶望」「無意味さ」「不幸」は
なくなります。

人間は「生」を「はじまり」として「慶び」「光」「希望」「幸せ」と
意味づけました。そして対極の「終わり」を「死」と名づけました。


ですから「無意味さ」「暗さ」「絶望」「不幸」となってしまったのです。

もし、それがまちがいでなければ、いのちはすべて「不幸」に終わり、
「絶望」に向けて生きているといわねばなりません。


実はネーミングの誤りなのです。それを正してくださるのが「往生」と
教えてくださった、仏さまの言葉なのです。


「死ぬ」といわずに「生まれて往く」と言いなさい。そこには虚しさは
ありませんよ。

※ 【正信偈和讃】の2段目―5 ↓ ↓ ↓

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お お き にっ! ♪(〃⌒―⌒〃)♪大阪yumenakama08

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2012年8月29日 (水)

【きょう・そして あした:何が見えるでしょう!?】♪(・_・;)

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えぬ   けれども

あるんだよ

見えぬ ものでも

あるんだよ


       (金子みすず

Book21

先日お寺の本堂で7回忌の法要がありました、がんを患って64歳で
ご往生された母親がよほど忘れられないのか、娘さん2人はお参りの間中
ずっと泣いておられました。


そこで読経の後にお話をしました。

悲しいことですが、もうお母さん本人にはお目にかかれません。
しかし、親鸞聖人は見えないものでもあるのですよと教えておられます。


春は見えませんが、山が緑になり野に花が咲くと春だと感じます。

やはり春はあるのです。


幸せも見えませんが、今日一日よかった、ありがたかったと感じる時

幸せはあるのです。


仏さまもそうです。

目には見えませんが、いつでもどこでもだれにでも

仏さまは光となってはたらきかけてくださっています

どうぞこれからは仏さまになられたお母さんに感謝して、お念仏申して
いきましょう」


日本人は昔から冥加または冥利ということばを知っています。

「おかげさま」と何気なく使っていますが、そこには深い意味わいが
あるのです。



お念仏と共に 仏さまのはたらきを 感じ味わえる人生を
送らせていただきたいものです。


........................................................









(無くして はじめて)

 大水の中を無理して走ったせいか、もう耐用年数が来たのか、暑い中に
車の空調が、まったく動かなくなりました。

数日に一回、ファンが回らなくなることは ありましたが、
しばらくすると回復して、涼しい風を吹き出してくれていました。

最初に症状に気づいたころ、自動車整備工場に行きましたが、そのときは
問題は無く、普通に働いており、そのままになっていました。

お盆前、忙しくなる頃に ついにまったく動かなくなって慌てました。

故障した初日は 長距離の運転でしたので、外気が入り スピードが
落ちない限り、耐えられない暑さではありませんでしたが、近距離を
走ることになった時に まるで地獄のようで 座席、背中 顔 手と
からだ全体から 汗が噴き出してきます。


お盆休み前、整備工場で代車を借り修理をしてもらい助かりました。


日ごろ当たり前になっているものも それが使えなくなると、はじめて
その有り難さに気づくものです。


 同じように、日ごろ接している大切な人も、その有り難さ尊さに
ほとんど気づいていませんが、それを無くした時にはじめて気づくものです。


若さも健康も、無くしてから有り難さに気づくものですが、もっと早く
それに気づくことが出来れば、人生はもっともっと 素晴らしいものと
なることでしょう。


修理が出来た車で 涼しい風を受けながら 思いました。


今 自分の周りにあるもの 友人も家族も 健康も いかに重要であるかを
気づき味わうことが出来るよう、先輩たちは、南無阿弥陀仏を残して
頂いたのではないのか。


南無阿弥陀仏に出会うことで、いち早く その有り難さに気づかせようと、
自分の失敗を、子どもや孫には させないようにと、お念仏の教えを
受け継いでいただいたのではないかと、味わっています。


少しでも早く気づいてくれ、一つでも多く感じてくれと お聴聞を勧め、
それを繰り返すことで 多くのはたらきかけを 感じ取り、味わうことが
出来るようにとの願いではないでしょうか。

仏さまのお話を お聴聞することで 少しづつ一つづつ、気づき始めることが
出来るようになっていく。

感受性が育っていく。


そして、私の周りにあるものを、客観的にもう一度見直すことで、
私の人生は ひと味もふた味も喜び多い豊かなものに 変化して
いくのではないでしょうか。


人生の喜びを、生きることの有り難さが確認できるのではないでしょうか。

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お お き にっ! ♪(〃⌒―⌒〃)♪大阪yumenakama08

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