« 2012年1月 | トップページ | 2012年3月 »

2012年2月

2012年2月29日 (水)

テスト中:【雪の八坂神社:厄除けぜんざい】(by雪見障子)

X20008090001020304x47_2

Smokes9903

/≪未完成作成中≫

【八坂神社:ご祈祷

    :厄除けぜんざい】<by雪見障子>:Winペイント画:(常磐新殿喫茶室)

Book21

【八坂神社:かるた始め式】

【八坂神社】の御祭神であります『素戔嗚尊』が『櫛稲田姫命』とのご結婚の際に、

♪” 八雲立つ  出雲八重   

垣妻籠に

八重垣作るその八重垣を“♪

と喜びの気持ちを歌に

   詠まれました。

日本で最初の和歌であると

  されることから、 

歌人たちの崇敬を集め、

  現在もこの雅な行事

【かるた始め式】の由縁です。

 お お き にっ! ♪(〃⌒ー⌒〃)♪大阪yumenakama08

以下:続く

Smokes9903_2

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年2月17日 (金)

【源光庵】&【生きる基本】

00234_3

【京都鷹峰山寶樹林源光庵

本堂:【悟りの窓】と呼ばれる丸い窓と、

【迷いの窓】と呼ばれる四角い窓、庭園を望む二つの窓。

悟りの窓】は、『禅と円通』の心を表わし、円は大宇宙を表現する。

迷いの窓】は、『人間の生涯』を象徴し、生老病死の四苦八苦を表わしている。

995回 生きる基本

 平成24年 2月 16日~

電波が混雑するこの地方では 有線テレビが非常に発展しており
密度の高い地域情報や 長時間にわたる中継放送など 通常の
テレビでは なかなかお目にかかれぬ内容が沢山あります。

 子どもの食育をどうするのか 給食担当の先生たちの研究発表会と
思われる番組が放送されていました。

スライドを使って、学校給食の改善や、生徒達が自分たちで 大豆を育て
納豆を作り、それを販売した体験発表などがあり 最後に 大学教授が登場して、
講演が始まりました。


 小中学校で いのちの大切さ、食事の重要さを教えていただいているが
大学生を調査すると、朝食事を まったくとらない生徒が 実に40パーセント
もあり、自分では食事を作らず 外食ばかりをしている学生がほとんどである。

一昔前までは、学生食堂では バランスのとれた定食が、主流であったが
今は 一品料理ばかりを学生たちは選び、栄養の偏りが心配される。

また、成績優秀な東京の大学では トイレに、落書き禁止、喫煙禁止、
食事禁止との張り紙があるといいます。
他の人と一緒に食事をするのが面倒で、一人でしか食べれない
子どもたちが 多くなっているとのことです。

 小中学校では 月に一度だけ 自分で作った弁当を持参させ、調理の
機会を増やそうとの取り組みも 行われているが、子どもに任せきれずに、
親が準備しているケースが 多いのではないか、どう炊事をしていいのか
知らない学生がほとんどだと言われます。

栄養の偏り、食生活の不安定などもあり、便秘の学生がほとんどで
規則的な生活の指導がなされていないのが現状であるとの報告です。

受験勉強を優先させて、人間として本当に必要な教育が家庭の中では
まったく忘れたれているとしか思われません。
義務教育の先生方にも、将来を見据えた指導を期待するとの講演でした。


これを聞きながら、体の健康ばかりではなく、こころの健康についても
大人たちは、こころ配りを怠っていることをつくづく感じます。

家庭での法座の席に 若者の姿が見えなくなっていることも、その一つです。
受験がある勉強が忙しいと、折角の尊いご縁から遠ざけているのではないかと
感じています。

体も心も、規則正しく調整していくこと、人間として最も基本の部分が
今 忘れられているように感じます。
どうか、お寺の法座へ 家庭での法要に、将来ある若者達に
参加させていただくよう呼びかけていきたいと思います。

南无阿弥陀仏の教えは 人間が人間として 生きがいをもって生きていく
ことの出来る生活習慣を養っていただく、最も大事な基本的な内容を
含んでいると思います。
子どもの頃から ちゃんと身につけさせておきたいことです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年2月 3日 (金)

【節分・初午:信心】

〇 〇 様 

こんちは~っ♪(●^o^●)

暫し入院中のご無沙汰、外出&外泊許可(何回抜け出すネンッ!(_;)

っで束の間のシャバ(^_-)-


PC
を覗かせて戴いていますぅ~っ\(o)/!

>>どう【信心】すれば良いのですか?

多くのご意見が出れば幸い!一つもなくても・・・

此れ又、結構な事と察します。

3日間思い悩んだ小生の勝手な独り言は、

“人其々 自らがお答えを出す”ものと。(^_-)-

Dr ナース 薬剤師 管理栄養士 心臓リハビリトレーナー ・・・信じています。

薬湯 検査 運動 睡眠 ・・・信じています。

神 仏 ご先祖様 父母 兄弟 子孫・・・知らない あなたも♪ 信じています。

私の“信じ方”で、・・・だから、二度に及ぶ心停止も今癒されてもいます。

・・・だから何時も 何処でも なにものにも  合 掌

“ 福は~っうちっ♪  ん 鬼も~っうちっ♪  ”

my「検索」の結果です。

初午、2月の最初の午の日で今年は23日。

稲荷社の縁日・・・江戸時代には、この日に子供が寺子屋へ入門した、

なる文字を見つけて、50数年前(此処武信稲荷神:参集殿の)畳に座って習っていた「算盤塾」を想い出し寺子屋と今ダブらせて居ます♪(^_-)-

初午&節分の今日2012年恵方巻を食べる方角は、「北北西やや右」との由♪\(o)/!

2011年の方角は、「南南東やや右」で何時もの様にそんなコメントに絵をUPしました。

今年は、此処「神主のひとりごと:コメント」で拝見した【信心すれば病気が治る・・・】

から連想(参考:上方<京都>いろはがるた=ゐ・“鰯の頭も信心から”)

(今:入院中のベッドに居ますが♪(^_-)-☆)、文字から連想して“鰯の頭も・・・”を描いています。

000333x120gaku

そう言えば昨年の「節分」のmyブログ記事(参照:20112 2 ()

 初夢  節分  ・・・)が、

     現在でも氣になります。三つ!

   

“丸かじりの美人”は、 

 何処へ行ったのでしょうかねっ!?(^_-)-

もう一つ、昨年記事の調べをしていた時から氣になるもう一つの

疑問点、1年経っても頭から離れません(頭が悪く何回読んでも未だに理解出来ないのですぅ~っ(;一_)) ↓ ↓ ↓

※【立春】:節分の翌日(立春・立夏・立秋・立冬)

“ 年のうちに 春は來にけり 一年(ひととせ)を

去年(こぞ)とやいはむ 今年とやいはむ ”

立春の旧暦での日付は平均すれば11日だが、旧暦の日付は節気に対し±半月程度変動する。つまり大まかに言って、立春は半分の年では新年1月の前半、半分の年では旧年12月(あるいは希に閏12月)の後半である。新年1月の立春を新年立春、旧年12月(または閏12月)の立春を年内立春と呼ぶ。

より正確に言えば、立春の次の節気である雨水を含む暦月が1月なので、立春翌日から雨水当日までの約半月間に朔(新月)がなければ立春も1月であり新年立春、その期間に朔があれば朔の前は前年12月(または閏12月)であり年内立春である。

?  ?  ? (_;)

残っている、もう一つの氣になっている事・・・それは、

【姉さん女房(^_-)-☆】です。

後日UPします・・・いっ、いつの日か~~っ(;一_)

【信心の語義】

参照「用管窺天記」より

浄土真宗では「信心正因」といい、浄土へ往生するには信心が正しい因であるとする。


しかし、その信心というものが世間一般で使われている意味と大きく異なっていることから、さまざまな誤解を生むのである。

蓮師の『お文』には、「信心獲得」とか「信心決定」などという語が多いのだが、これをもって衆生の側に信心という物柄を得るように錯覚することが多い。

古来から浄土真宗では、「信は仏辺に仰ぎ、罪悪は機中に味わう」といわれ、信を自らの側に見ないという特徴がある。「若不生者」(もし浄土に生まれさせなければ、正覚を取らず)という、如来の信を仰いでいくのが浄土真宗の信であるからである。

さて、それでは、信心という語の意味を『一念多念文意講讃』梯實圓著から窺ってみよう。以下の引用は、『一念多念文意』の本願成就文についての解説からの引用である。なお、それぞれの引文については出拠を示すために『浄土真宗聖典』WIKIARCへリンクを作成しておいた。

  http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8

信心の語義

信心は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり」といわれるように、親鸞聖人は、信心とは本願を疑う心がないことであると定義された。いわゆる無疑心である。法然聖人が『選択集』「三心章」(註釈版聖典七祖篇』一二四八頁)に信疑決判を行い、「生死の家には疑をもつて所止となし、涅槃の城には信をもつて能入となす」といわれた釈を承けて、悟りと迷いとを信と疑によって分けるという信疑対を強調し、信の反対概念を疑とされていたからである。


「信文類」の字訓釈(
『註釈版聖典』二三0頁)や法義釈(『同』二三四頁)にもそのことが見られる。

そこには「疑蓋間雑なきがゆゑに、これを信楽と名づく」といい、無疑を信楽すなわち信心の名義とされていた。この疑蓋間雑の「蓋」とは、一般的には煩悩の異名で、真理をおおいかくすという意味を表していた。

しかしここでは本願を疑う心は、ちょうどコップに蓋をしたままで水を注いでいるような状態であるというので蓋という言葉を用いられたと考えられる。いくら本願の法水を注がれても自力の「はからい」という蓋をしていたのでは法が心に届かない。「疑いという蓋を法と機の間に雑えない状態を信心という」と知らせようとされたのであろう。

このように本願招喚の勅命を疑いをまじえずに聞いていることは、如来の仰せに随順していることであるから、信は信順と熟字して随順の意味とされる。「信文類」(同』二二六頁)に引用された善導大師の「二河白道の譬喩」のなかに「いま二尊の意に信順して」といわれているものがそれである。釈尊の発遣と、弥陀の招喚にはからいなく随順して、南無阿弥陀仏という願力の道を我が道と領解したことを信心というのである。

ところで親鸞聖人は、『尊号真像銘文』(『同』六五一頁)に「帰命と申すは如来の勅命にしたがふこころなり」といわれているように、如釆の勅命に随順することを帰命の語義としても用いられていた。
こうして信心と帰命とは、元来別の言葉であったのを、親鸞聖人はどちらも如来のおおせにしたがうという共通の意味をもたせることによって同義語として使われていくのである。

また親鸞聖人は、信心のことを「たのむ」という和語であらわされることがある。『唯信鈔文意』(『同』六九九頁)の初めに「本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを唯信といふ」といわれたものがそれである。信心とはわが身をたのむ自力のはからいをすてて、本願他力をたのみたてまつることであるといわれる。


この「たのむ」という言葉は、「行文類」(『原典版聖典』二一一頁)の六字釈にも帰命の帰の字の訓としても用いられていた。
すなわち「帰説(きえつ)也」の左訓に「よりたのむなり」とあり、「帰説(きせい)也」の左訓に「よりかかるなり」といわれたものがそれであって、「本願招喚の勅命」にわが身をまかせている状態をあらわしていた。

「たのむ」には現代では「たよりにする。あてにする。信頼する。たよるものとして身をゆだねる。懇願する」などの意味があるが、親鸞聖人の「たのむ」の用法のなかには「懇願する」という意味は全くなく、「たよりにする、まかせる」という意味でのみ用いられている。それは「たのむ」を漢字で書かれる場合には必ず「憑」を用い、他の漢字に当てはめることがなかったことによって明らかである。「憑」は、「よりたのむ・よりかかる・まかせる」という意味をもち、決して懇願するというような意味はなかったからである。
のちに蓮如上人が信心を専ら
「弥陀をたのむ」といい表されたのはこの用法を踏襲されたものである。

また親鸞聖人は信心を「真」の意味とされている。「信文類」(『註釈版聖典』二三0頁)の字訓釈に「信とはすなはちこれ真なり、実なり」といわれたものがそれである。もともと「信」は「真」という意味であり、「真」には「実」という意味があるところから、信を真実といわれたのである。親鸞聖人が、信をつねに真実と関連させ、如来の真実なる智慧と同質の信でなければ如実の信心ではないといわれるのも元来信は真であったからである。

いいかえれば聖人が信心とは「本願他力をたのむ」ことであるといわれたときには、本願こそ究極の真実であるから、はからいなく「たのむ」という信相が成立するのだということを顕したかったのであろう。

通常の仏教では「修因感果」といって、因を修することによって果を感得することが生死の迷いを離れる道であり悟りへの道であるとされる。

しかし法然聖人は、悟りと迷いは信と疑によって決定されるのだと仰るのである。これが有名な「信疑決判」であり、これによって浄土仏教は信心の仏教であると断定されている。これを承けられた親鸞聖人は、その功を「正信念仏偈」の源空讃に讃嘆されておられる。

「正信念仏偈」は正信(信)と念仏(行)を偈頌されたものであり信と行は不離である。

還来生死輪転家 決以疑情為所止
(迷いの境界にとどまり、輪廻を繰り返して離れることができないのは、
本願を疑って受けいれないからであり)
速入寂静無為楽 必以信心為能入
(すみやかに煩悩の寂滅したさとりの領域に入ることができるのは、
善悪平等に救いたまう本願を疑いなく受けいれる信心を因とすると決着された。 )

この法然聖人の信疑決判を、曇鸞大師の『浄土論註』に説かれる本願力回向の教説により、信は阿弥陀如来より回向される行信であり、信は仏性であり智慧であり、願作仏心(他力の菩提心)であるから、往生の正因は、信心であるとされたのが「信心正因」という言葉の意味であった。

本願が真実であるからこそ、その真実をはからいなく聞信し、受けいれた念仏の行者に信心が正因ということが成立するのである。

【正信偈和讃】

  :(「正信念仏偈」

     ⇒「念仏・和讃」

     ⇒「回向」

     ⇒「御文(章)」。

   拙いmy筆から(^_-)-☆ ↓ ↓ ↓

Zzzxx02030460

【お念仏とは】:信(心)じています、疑い(心)を持たず。

(同じ意味合いに於いて参考に読ませて戴いています。)

 

お お き にっ! ♪(〃⌒―⌒〃)♪大阪yumenakama08

▼  ▼ http://blogs.yahoo.co.jp/namoamidabutsu18/60964775.html .............................................................................................................................................................................................................................................................. ♪♪ 【妙念寺:見て・聞いて 第993回 たまたまの出あい】:平成24年 2月2日~ ....................................................................................................................................... ・ 寒い日の朝 親子ずれでの墓参りが 多い日があります。 きっと 中学とか 高校、大学の入学試験の日なのでしょう。 ご先祖様に 受験の報告へ来られるのか、何組もお参りされる日があります。 希望通りの学校に入った方、残念ながら 第二志望の学校の方もあることでしょうが、 どれも無駄ではない 意味があるのだと 味わうことが出来るようになるのが  お念仏の教えだと思います。 どんな 環境に入ろうと 希望道理にことが進まなくても、いろいろの出あいがあるもの  一つとして 無駄なものは ないと言える 素晴らしい人生をスタートしてほしいものです。  このごろつくづくと 思うことがあります。 高校や大学ですと 専門の教科は それぞれの先生が教えていただきますが 小学校の場合、担任の先生の責任は 重大だろうと思のです。 すべての教科から、生活指導まで一人の先生が一年間から数年間 全部受け持って いただくのですから、しかも、その先生は 子どもの方からは選ぶことは出来ません。 その先生の熱意や頑張りようによって、子どもさんの人生は 大きく違って くるのではないかと思います。 同じように、小さな集落にある 町医者の方の力量で その地域の人々の 生命は左右されることも多いものです。  これと同じように 所属の寺院の 住職との出あいが ご門徒の人生を 大きく左右するものだろうと、自分に言い聞かせています。 先輩たちが苦労して受け継いで頂いたお念仏の教えに、ご縁がある人生と ご縁がなく、まったく世間の常識だけで送る人生 そこには大きな違があると感じます。 そういう意味で,住職という役目は 大変に責任が重大だと思います。 小学校の担任の先生は 一年か二年,数年経てば 新しい先生と変わり 新しい出あいがあります。 病気の場合も、近くのお医者さんだけではなく、大きな病院を選んで 診察を受けることも出来ます。 しかし、所属の寺院は なかなか思うように 自由に変われないもの、 住職も数十年と変わらないものです。 ご縁に会あうことが出来なければ、南無阿弥陀仏に会えなければ その人は 一生涯 空しい、怒り 腹立ち、貪りの辛い苦しい人生となることでしょう。 或いは、間違った教えに誘われて 尚一層 悲しい苦しい人生で 終わることも考えられます。 住職は そういう意味で 責任が大きいものだと言い聞かせています。 それと同じように 自分の子どもや孫 連れ合いが、お念仏の教えとの ご縁のないことは 最大の不幸だと思います。 どうか、南無阿弥陀仏のご縁に出遇っていただき、私の人生は本当にすばらしかった、 有り難かったと言えるように お互い成らせていただきたいものです。 そして身近の人、一人でも多く 南無阿弥陀仏を聞く生活 豊かな人生との ご縁と 出遇っていただいたいものです。 妙念寺電話サービス お電話ありがとう ございました。 次回は、2月9日に新しい内容に変わります。 .................................................................................... ※ 前回【第992回 信心をいただくと】:平成24年 1月26日~・・・でした。 ..(では、その記事を)↓ ↓ ↓ ... ご本山の通夜布教を 記録しようと 小型のICレコーダーを求めました。 録音できる容量が余りにも多いので、これまでテープで持っているご法話を 収録し始めました。 その中に 妙好人の和泉の吉兵衛さんを三宮義信先生が語って頂いたものに、 こんなところがありました。 親鸞聖人は 信心に10通のご利益を数え上げておられます。 これを、三つほどにすべくくることが出来ます。 一つには 信心をいただくと 阿弥陀さまが始終自分を守って いてくださるとの確信が沸き上がりますから,嬉しいにつけ悲しいにつけ、 仏さまに感謝の心がわいてきます。 従って日常の生活が愉快になってきます。 第二には 信心を得た人は 先々に大きな期待がありますから 失敗があっても 立ち直ることができます。 仏さまから受けた大きなご恩に報いるために しっかり働かねばならない という活気のある生活になります。 第三に、信心を得た人は 仏さまとともに起き 仏さまとともに寝る という思いがありますから 自分一人ぼっちの生活ではない  目には見えないがいつも付き守ってくださる仏さまがあると 自らをたしなめながら 蔭 日向なく生きていくことが出来ます。 ですから 仏さまに取り計らわれた生活 仏さまによって築き上げられた 人生です。 これが信心の利益といえましょう。 ある人が 吉兵衛さんに 息子の金遣いのあらいことを訴えました。 吉兵衛さんは その人に 息子さんに譲ろうと思ってあんたは財産を こしらえたんでしょう。 だから 息子さんが使ってくれたら本望でしょうがと 言いました。 そして今度は 金遣いの荒い息子に向かって あんたは年が若いから お金を使いたんでしょう。 お使いになるのは 結構ですが しかし金を使うときに この金は 親父さんが 汗と涙の中から こしらえてくれた金だと思いながら 使いなさい。 これだけを頼んでおきますよと、言いました。 吉兵衛さんのところには このような相談事がいつもあったようです。 ところで いつもこんな難しいことを言っていたのかというとそうでも ありません。 自分の家の台所で 火鉢の前に座って 隣のうちをみながら お隣の障子は破れ放題 張り替えたら良いのにと笑っている人がいる その人は 隣の家をどこから見ているかと言うと自分の家の障子の破れから 覗いていると ユーモアに富んだことも言っています。 人の振り見て我が振り直せ,人の欠点ばかり目につけて,自分のことは 忘れている そんな自分をたしなめなさいということが言いたかったのでしょう。     ・・・・・・・・  本堂や月忌でお会いする人がいつも愉快で 活気があり、蔭 日向なく 生きておられるのを味わい 信心のご利益であると 有り難く感じています。 どうぞ、仏さまによって築き上げられた人生を、精一杯生かさせていただきたいものです。            ............. ・   by【妙念寺・電話S「法話原稿」】 .......................................................................... ・ ..・   .  【 信   心 】  ..................................................................... ≪ 信心が かなめ ≫ ...............................................   信心は、浄土真宗のかなめであります。 しかし、信心がたいせつであることは、あえて浄土 真宗でなくても、どの宗教でもいわれております。 しかしその場合、いったい「〇〇さま」のなにを信ずる のか、姿を信ずるのか、その実在を信ずるのか、 めぐみやたたりの力を信ずるのか、よく考えてみると あいまいであります。 また「信ずる」とはどんな状態であるかということも、 明確でありません。 仏教一般の場合でも、もちろん信心を必要として おりますが、その信というのは、仏道を歩むためには、 まず教えを信じてかからねばならないという意味での 信であります。 いわば、これから仏法を学び修行していくための、 入門となるものであって、さとりはどこまでも その後の修行にかかっているわけです。  浄土真宗の信心は、そういう信とは異なり、 対象はつねに明確であり、信ずるひとつで 救いが完全になしとげられるのであります。 ......................................................................... ・   ≪ なにを どう 信ずるのか ≫  親鸞聖人は「真実の信心」を明らかにし、 信心ひとつで救われることを説かれました。 それは、信心は人間の迷い心がつくったもの ではなく、本願力の回向による信だからであります。 では真実の信心が仏になる因であるとしたら、 信心はその条件であるかというと、けっして 条件ではありません。 如来は「信じたならば救う」といわれるのではなく、 「かならず救わねばおかない、わたくしのまことを 信じてくれよ」といわれるのです。 つまり「救う」という如来の誓願が先に動きだしている のであって、それに呼びさまされておこるのが、 わたくしの信なのであります。 そのめぐみを受け入れるためには、 何の条件もいりません。  ではわたくしたちにとって「信ずる」とは どうなることでしょうか。 それは「如来の本願力について疑いがなくなり、 それにまかせること」であります。 浄土真宗の信心は自分の心を固めて信心するの ではなくて、そういう我執によるはからいがなくなる ことです。 本願の光りに照らされて、自分の本当のすがたを 知らされ、如来のまことに目覚めてゆくのであります。 その信心をいただくには、「真実の教えを聞く」 ことしかありません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2012年1月 | トップページ | 2012年3月 »